serise 【adieu】 vol.II
坂口光男展

5月26日(月)〜6月7日(土)
日曜休廊 11:00〜19:00 最終日17:00まで

少女と遠景

種村季弘(ドイツ文学者1933〜2004)
 永遠のティーンに凍結されたような不思議な少女と、彼女が魔術的に呼び起こす鮮明な追想にも似た遠景の細部との結合を、エロチックな隠喩によって構成するという描法は、ここ数年来ほとんど風俗的流行の趣を呈していて、ときにはそのセンチメンタリズムと俗悪に辟易しながらも私自身、子供部屋に紛れ込んでいた「令女界」の蕗谷虹児や高畠華宵の追想に耽るよすがとして、折にふれ愛好してきた。鮮明な遠景が全景の少女を装飾的な線のリズムで巻き込み、いわば凌辱的な魅力をそなえているように思われたからだ。
 しかし風景画は??同じ不思議な少女によって喚起された風景であるにしても、そして件の少女が画中には姿を見せない場合があるとしても、コンスタブルの兄妹相姦のにおいさえ立ちこめた田園や、カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒのみずからの熱情的憧憬に包括されさながらにこの包括者を超出して憧憬をする夕景のように、それなりの機器と没落の形而上学に滲透されていなければ、容易に一個のデザインに堕してしまうであろう。いいかえれば、少女を風景は禁制侵犯の契機を失ってたがいに夫婦のよう狎れ合い、相互に赦し解説し合って装飾的サディズム本来の面目はみるみるうちに色褪せるであろう。
 わが国の風景に取材した超現実的絵画が、その有機的超現実の自足した水準を脱して、喚起される対象と喚起力との骨肉相食む闘技場たる無機質的超現実の世界に到達しなかった消息がおそらく右にある。風俗と流行はこの陰湿な難点を消去しはしない。若い世代の人に贈るはなむけの言葉があるとすれば、孤独にある才能のたけをつくして、絶対の疎隔の純潔を維持し続けること、それあるのみではなかろうか。
※’71年個展パンフより転載

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